日本国憲法における人権(「信教の自由の限界」 編)
- 行政書士 森 政敏
- 2016年3月21日
- 読了時間: 3分
今日は少し寒く感じたのは私だけでしょうか。昨日のポカポカ陽気から一転、寒さが戻ってきた感じです。
みなさんは、今日は多くの人が連休の最終日だったのではないでしょうか。みなさま、いかがでしたか。ご家族でゆったりと過ごせましたでしょうか。
私もの場合は、ペットが家族としているので、遠出はできません。ペットホテルもペットにストレスがかかってしまうので、選択肢としてはなしです。かわいそうですからね。特に動物は環境の変化に敏感なので、預けるのはどうかなって感じです。
さて、それでは、そろそろ表題に入っていきます。今日は、前回の「信教の自由」にも限界があるんだということを示した判例も参考に書いていきます。
【信教の自由の限界】
信教の自由については、それが内心にとどまるので、絶対的な自由で、いかなる制約も受けない自由であるといえますが、それでは、宗教的自由が外部に露見する「宗教的行為の自由」と「宗教的結社の自由」は、まったくの制約もかされずに認められるものなのでしょうか。
この場合は、外部に露出する自由であることから、当然のことながら、他人の人権と衝突する場面も十分に考えられ、ある一定の制限をうけることになります。つまり、信教の自由のうち「信仰の自由」を除いた自由は、絶対無制限に認められるものではないということです。
あまりにも有名になってしまった「信教の自由」の限界を示した判例としては、「宗教法人オウム真理教解散事件」があります。
概要については、みなさんご存知でしょうから割愛しますが、その争点は「宗教法人に対する解散命令は、憲法第21条一項に反して違憲か否か」でした。
判例は、これを合憲として、解散命令を肯定しましたが、その判旨は、「本件解散命令について見ると、法81条に規定する宗教法人の解散命令の制度は、もっぱら世俗的側面を対象とし、かつ、もっぱら世俗的目的によるものであって、宗教団体や信者の精神的・宗教的側面に容かいする意図によるものではなく、その制度の目的も合理的であるということができる。そして、抗告人が、法令に違反して、著しく公共の福祉を害すると明らかに認められ、宗教団体の目的を著しく逸脱した行為をしたことが明らかである。抗告人の右のような行為に対処するには、抗告人を解散し、その法人格を失わせることが必要かつ適切であり、他方、解散命令によって宗教団体であるオウム真理教やその信者らが行う宗教上の行為に何らかの支障を生ずることが避けられないとしても、その支障は、解散命令に伴う間接的で事実上のものであるにとどまる。したがって、本件解散命令は、宗教団体であるオウム真理教やその信者らの精神的・宗教的側面に及ぼす影響を考慮しても、抗告人の行為に対処するのに必要でやむを得ない法的規制であるということができる。」とした。
本判例のポイントは、「①解散命令の目的がもっぱら世俗的で、②信者の精神的・宗教的側面に容かいするものではなく、③例え宗教団体が弱体化しても、それは間接的で④事実上のものである。そして、⑤必要でやむを得ない制限である。」というところがポイントとなります。
実はこの判例は、過去に行政書士試験に出題されています。宗教法人Xとされていましたが、問われた箇所は、まさに、上記の判例のポイントです。
穴埋め形式の問題だったと思いますが、解散命令の「目的」が「もっぱら世俗的」で、その趣旨は、「信者の精神的・宗教的側面を溶かいするものでなく」、「仮に弱体化を招いても」それは、「間接的・事実上のもので」、「必要でやむを得ない制限」であるといった感じで、穴を埋めていくものだったと思います。
この判例を知っている人は、当然に個々の箇所は満点ですね。簡単でした。再度同様の問題が出される可能性もあるので、皆さんもチェックしてくださいね。
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