ある人は考える「憲法は浮世離れしている」「今回の災害で憲法を論ずるのは、抽象的すぎる」
- 行政書士 森 政敏
- 2016年4月19日
- 読了時間: 3分
今回、というのは、先日に熊本県を震源にして、その周辺県域を巻き込んで大変な被害をもたらしている、所謂「熊本地震」ですが、今回の地震は本当にひどくてひどくて、本当にニュースを聞くのも嫌になってしまいそうなほど被害の状況がひどいものですね。
私も、微力ながら協力できるものは協力したいと思いますが、罹災なさった方のニーズとそれに合わせた救援ができているのかを把握してからでなくては、かえって迷惑二なるという側面もあるので、悩みところですが、その意味で手っ取り早い手段としては義援金を送る方法が一番かもしれませんね。
もちろん会計がしっかりしている組織以外に託してはいけません。避難物資は遅れそうなものはありそうですが、高額の義援金は無理だ。本当に申し訳ありませんが、今は自分のできそうなことをやろう。
さて、表題の国会でありそうなやりとりですが、A氏「この条文では十分に憲法の定める生存権の基準に達するだけの支援ができないじゃないか。」B氏「そうだ!これは与党の欺瞞だ」C氏「いや、この条文が直接適用できなくても、判例は憲法第25条を基本として、これを裁判規範を持たせて裁判をすることもできるし、今回の場合、解釈で、十分この法律でカバーできますよ。」D氏「・・・(ショボーン)」
上記のような国会のやり取りは容易に想像できますね。確かに早急に、できれば、震災発生時より72時間以内にすべての人を救助するのは理想的ですが、これは理想です。
現実的には、もう追いつきそうにありません。私は別にそれだから悲観しろと言っているわけではない。
このような状況で議論をすると、「矛盾的」な気持ちが湧き上がってくるものだなと感じるのです。本来A氏の主張では、「憲法論=抽象論」ばかりいっているのではない。という結論になりそうですが、いざ、自分が被災者になったら、翻って、憲法で、生存権をうたっているおかげで、たった一つだけれども、たった一つのおにぎりだけど、被災したたちばであれば、どれだけ幸せに感じるのだろうかと想像する。
政策を立てる上で当然必要となるのが、現実を的確に、時に残酷にしっかりと把握するということで、現実を見ずして政策(理想)は立てられません。その理想の塊は法律であり、究極的に抽象化された国家の最高法規範である憲法なのです。
つまり、私がいいたちのは、人は、小さなおにぎり一つで幸せに心から幸せになれるのに、もっと多くを求めている。憲法では必要最低限度でも文化的生活を享けることができるのであって、決して何もかもを所有するのではない、ということです。
小さな幸せを、いつかは大きな幸せであると言えるくらいの人間になりたいものです。それが、真に豊かであるということなのかもしれません。
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